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研究室に来るのは今日で終了 [仕事]

表題の通りです。

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何故今日限りかといえば、来週の金曜日に引っ越すためには、来週は荷造りに集中しなければならないだろうと予測しているから。仮に引っ越しの準備を月曜日~木曜日から火曜日~木曜日とか水曜日~木曜日に値切って1~2日だけ来週出勤することにしても、研究上の意味などほとんどないわけで…。

センターのボスは、きみの研究の話をもっと聞きたかった、keep in touch と言ってくれました。そう言えば、去年の学会発表の結果なども知らせてなかったな…(汗)。

結果的には、僕の研究はこの2年間で大きく進んだけれど、来る前に思い描いていたほどスムーズには行かなくて(あんなに大変な作業だったとは…)、しっかりした結果はこれから出していくことになります。なので、この2年間を生かすも殺すもこれからの僕次第なのでした。帰ってから、1日も早く、ここで過ごした成果としてこんなすごいことが分かりました!とボスに報告できるようにしなくちゃね。

 


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科研費応募手続き完了 [仕事]

僕は大学の専任教員となってから今年で20年なのですが、恥ずかしながら、今まで一度も、科研費(科学研究費助成事業)に、自分が研究代表者として応募したことがありませんでした。最初の6年間在籍していた女子短大では、そもそも、学内で募集の周知すらされていなかったような気がします。それに、当時の僕は研究よりも教育にエネルギーを注いでいて、学会発表自体あまりしていなかったので、そういうものに応募という発想自体が薄かったと思います。

2000年に今の四年制大学に移ったところ、科研費に限らず、様々な研究助成の情報が事務から回ってくるようになりました。そもそも、大学教員は研究者+教員ですから、研究を盛んにやって成果を出さないといけない、という意識は元々あったものの、研究活動を盛んにやっていることのバロメーターが、科研費の受け入れ、あるいは、それに先立つ応募なのだ、ということを、遅ればせながら意識したのは、その頃だったと思います。先輩や後輩の科研費応募に、研究分担者として入れてもらった(けれども、採択はされなかった)のも、その頃のことだったかな…。

その後は、体(脳)を壊してそれどころではない状況が数年続きました。体を壊した原因のかなりの部分は、本を書くために心身を削ったことにあると、今では思っています。しかし、そのおかげもあって、その頃出会った隣接の工学分野の研究者が、僕を科研費のプロジェクトに入れてくれる、という有り難い展開がありました。それが2005~7年、2008~10年、2011~13年、と3年×3回続いています。2005~7年の時は、まだ研究分担者でも予算配分はなくて謝金をもらっただけでしたが(今の連携研究者と同じ扱い)、2008年以降は予算の配分を受けています。

それは有り難いことであるとともに、予算を消化するのも大変なんだな、と思ったのが正直なところです。何しろ、科研費の旅費は、学会に行く場合、発表しないと支出できないからです。でもそれは、僕にとっては、研究を盛んにやるというインセンティブの役割も果たしました。

そのプロジェクトは来年以降も更に発展させて続けるということで、今回の応募にも研究分担者として入れてもらっているのですが、他人のプロジェクトに入っているだけではなく、自分でも応募しなければという気持ちになってきたので、今回は自分単独でも応募することにしました。今いる大学の研究助成課のスタッフから勧められたというのもあります。去年も勧められたのですが、在外研究をもう1年延長するということで断ったという経緯がありました。(科研費への応募を推進することは、研究助成課の存在意義の大きなものでもあるし、大学の方針でもあります。研究費を集めることが、大学の飯のタネを集めることにもなるし、大学そのものの評価にも関わるから当然ですね。)

いや、本当は、もっと前から、自分でも応募したいという気持ちだけはあったのです。しかし、応募書類を作成する時期が、後期の授業を始める時期とぶつかり、何とかしなければと思っているうちに時間切れ、とういうことを繰り返していたのでした。その点、今年はアメリカで研究をしているだけですから、書類作成のための時間は確保できます。こういうタイミングで応募できないとしたら、また来年以降も時間がなくて応募できないということの繰り返しになってしまう…という危機感がありました。それで、何とか今年は応募へとこぎ着けたわけです。(ニューイングランドへの旅行を入れてしまったのは、時間的にはきつかったです…。でも何とかなってよかった。)

研究助成課のスタッフが申請書の内容に赤字を入れてくれて、僕が修正して再提出、というのを2回繰り返しました。なるほどね…ここまでやってくれるのなら、もっと早く出せたのかも、というのが今の感想です。

さて、果たしてこれが採択されるかどうか? 内容の新奇性には自信があるのですが、問題は、僕の研究遂行能力をどのように見てくれるか、ですね。今までの僕の研究成果は、小さな会議でしか発表していないので…。仮に、研究分担者として入っているものと、両方採択されてしまったら、研究費の消化には相当苦労しそうですが、そんな心配は、「当たって」からにしておきます。

 


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学会@アイオワ州立大学 (Ames, IA) [仕事]

今月18日から22日まで、アイオワに行ってきました。19日から21日まで、アイオワ州立大学で開催された学会に参加・発表をするためです。ほとんど大学だけしかない場所なので、家族は置いて、1人で行ってきました。(ちなみに、11月には今度はアリゾナで学会があり、そこでも僕は発表するのですが、こちらは観光も兼ねられそうな場所なので、家族で出かけることにしています。)

どうも、ここのところのトラブルの多発で、飛行機での移動には「また遅れたりして大変なことになるのでは…」という恐怖がつきまとうのですが、今回はとりあえず、往路(ユナイテッド航空利用)には問題はありませんでした。まったく、何でこんなことを恐れなきゃいけないのやら。

さて、現地では発表準備が十分でなかったこともあり、今回はあまり写真を撮る余裕がありませんでした。これはアイオワ州立大学のキャンパスの一角ですけど、こんな写真しかなかったとは、後で見て愕然としたのでした。

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19日は学会前のセミナーで、20・21日が学会本番でした。僕は1日目の午後一番に発表だったのですが、ここでトラブル。発表時間の10分ほど前に、持参したノートPCにプロジェクターのRGBケーブルをつないだところ、パチッというショートするような音がすると同時にPCの電源が切れてしまいました。PCを立ち上げ直そうとしても電源自体が入らない。仕方なくバッテリーを外してACアダプターで立ち上げ直してみたら電源は入ったのですが、電源コードの長さが足りなくて発表台の上に乗らない状態。それでもともかく、もう一度RGBケーブルとつないだのですが、また同じように電源が切れてしまう。更にもう一度PCを立ち上げ直したら、トラブルからの復旧処理が始まってしまい、操作が不可能になってしまいました。

その時点で、スタッフが別のPCを貸してくれました。ところが、僕としてまずかったのは、プレゼンテーション用のファイルを、PC本体とクラウド(SkyDrive)にだけ保存してあり、USBメモリにコピーしておくのを怠っていたことです。ということは、SkyDriveに接続してファイルをダウンロードしなければならないわけです。ネット接続は大学のゲスト用WiFiがあるから問題なかったのですが、PCを貸してくれた人がたまたまチリからの留学生で、Windowsがスペイン語版でした。SkyDriveに接続しようとしたときに、どうやら、普段と違うPCで接続しようとしているからセキュリティ確認のために携帯電話にコードを送るからそのコードを入力せよということになっていたようなのですが、僕は一応スペイン語は勉強したことがあって、ある程度は分かるとはいえ、状況が状況なだけにパニックになってしまい、あたふたしているうちに発表時間が半分過ぎてしまい、もうこの時間に発表は不可能とうことになってしまったのでした…。その後に、別の人が英語版で動いているPCを貸してくれたのですが、手遅れでした。

結局、学会の開催委員長の提案で、発表の取り下げがあって空きになった時間帯が2日目の午後にあるので、そこで改めて発表ということで解決してもらったのですが、これはちょっとショックが大きかったです。後の発表を聞きながらも、呆然とした気分はなかなか直りませんでした。

学会1日目の夜には懇親会がありました。トラブルのおかげで僕はちょっとだけ顔が売れて、懇親会開始前の待ち時間に、たまたまカンザス大学から夫妻で発表に来ていた音声学の先生(僕自身が過去に留学したときに習ったI先生の後任)が声をかけたりしてくれました。実は僕は昔カンザス大学に留学したことがあって、と話したら、今度KUに来たら自分たちのところにも是非寄ってよ、というような。ただ、懇親会自体では、座席の選択を誤って(と言うよりも、最初に率先して座る場所を決めてしまったのがいけなかった)、周りがこの大学の学生で埋まってしまい、着席式だったこともあって、せっかく知り合ったカンザスの先生たちと更に話すことはかなわなかったのが少し残念でした。下の写真のような状況なので、一旦場所が定まってしまうと、ほかの場所に移動するのはほとんど不可能だったんですよね…。

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2日目の発表はつつがなく終わった…と言いたいところですが、前日のショックから十分に回復していなかったことや、そもそも、人前で話すのがものすごく久しぶり(何しろ、アメリカに来てからは授業などもしていなかったわけです)でどぎまぎしてしまい、あまりうまくはできなかったです…。

学会の翌日22日は、相方の誕生日だったので、学会が終わったらその日のうちに空港があるデモインに移動、そこで1泊して22日は早朝の便でフィラデルフィアに向かいました。すると、ここで恐れていたトラブルが!そもそもの出発が機器の異常で30分ほど遅れたのですが、乗り継ぎをするシャーロット(ノースカロライナ州)までの3分の1も行かないところで、急に「機器異常のため着陸する」とアナウンスがあり、セントルイスに着陸しまったのです。しかも、復旧に時間がかかるから一旦コンコースに出るように、という指示までありました。結局、僕らが乗った便はそこで打ち切りになり、みんな何かしらの別ルートで目的地に向かうことになりました。

僕にとっての多少の救いは、僕が帰る先のフィラデルフィアは、今回の帰路に利用したUSエアウェイズのハブの1つなので、セントルイスからでも直行便が出ているということでした。それなら、更に別のところを経由する必要がないので、遅れはそれほど大きくならない可能性があります。実際、着いたゲートの窓口でフィラデルフィア行きの直行便への変更がされたのですが、ここでもまた、納得のいかないことがありました。

元々の予定では午後1時にフィラデルフィアに着くはずで、最初の変更では、それが夕方6時に着くものになっていたものの、「もっと早い便がある場合はそれに乗れるように、搭乗ゲートで希望するように」という指示をもらっていました。行ってみると、元々の予定と同じような時間にフィラデルフィアに着く便がゲートにいたので、そこの係員にこれに乗れるか確認してみたところ、自分にはチケットを変更する権限がないから、元の係員のところへ行け、と差し戻されてしまったのです。僕のほかにフィラデルフィアを目的地とする人が2人いて、同じような扱いを受けていました。仕方なく元のゲートで3人で列に並んでいたのですが、当然、他にもいろいろな変更手続きをする人がいて時間がかかり、結局、フィラデルフィア行きの便が出発するのを目の前で見送ることになってしまいました。しかも、元のゲートの係員は、自分のところに差し戻されたこと自体をおかしいと言っていたという、社内での連携のなさを見せつけられてしまったわけで。

結局、その次のフィラデルフィア行きには乗れたので、本来の予定よりも2時間ほどの遅れで済みました。まあ、不幸中の幸いではありましたが、どうやら、僕が飛行機旅行でトラブルに遭うのは、愛用していたユナイテッド航空に特にトラブルが多いというわけではなく、アメリカの航空業界全体の問題か、そうでなければ、僕が特に運が悪いから、と思うしかないようです。

学会そのものでも、帰りの旅行でも、ちょっと冴えなかったな…という話でした。


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こちらでの仕事 [仕事]

僕は「訪問研究者」としてアメリカに来ています。仕事は自分の研究を進めることですが、その仕事はこんな風にやっています。

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自分で持って来たノートPCで仕事というのがちょっと切ないですね。あと、研究室の冷房が効きすぎで、暑がりで冷房好きの僕でさえ、あまりの寒さに頭痛がするというのも辛いところです。

しかし、これほど自分の自由になる時間がとれる環境は何物にも替え難いので、大事にしたいです。

地震に伴う大仕事。 [仕事]

地震が発生したときは自宅にいて、新しく買った本棚の組み立てをしているところでした。揺れている時間が非常に長く、しかもエスカレートしているようだったので、「これは今度こそやばいか?」と思いながら、空で倒れやすい新しい本棚を押さえていました。リビングでは相方が子供2人(息子は床で昼寝中、娘はだっこ中)を守りながら「こっちへ来て助けて!」と言い続けていましたが、揺れの勢いが下降線をたどるまでは僕もそのときいるところを動けませんでした。

結果的にはうちは家族全員何のけがもなく、物的被害もありませんでした。しかし、この地震が、僕にとって、これまでの人生で最大のものだったことは確かです。

さて、それはともかく、ここでの話は僕の仕事場である大学のことです。春休みで自宅にいた僕は、職場が被害を受けるなんてことは全く頭になかったのですが、今日の昼前に大学から電話があり、地震により生じた仕事のために出かけることになりました。それは、3月末に任期を終えるのを待つばかりだった研究室委員会委員長としての業務がにわかに発生したことを意味するものでした。

内容は、研究室で本が落ちたり書架が倒れたりして被害を受けたものをどのように復旧するかです。内開きのドアの前にたくさんの本が落ちてドアが開かなくなってしまった研究室もあるということでした。このような大学の財産の問題は、法人の管財部が担当して復旧するものなのですが、研究室の場合、これを法人が勝手に復旧すると、教授会の自治が侵された、と非難が出てしまうんだそうです。過去のキャンパス移転時などにそのようなことがあったので、僕たち研究室委員会が教学側の代表として納得ずくでやるんだという形を取る必要があったのだということでした。

それで、キャンパス自体が立ち入り禁止措置を執られている中、ヘルメットかぶって軍手をして視察したわけですが、見たのは最も被害がひどい部類の部屋です。

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さすがに丘陵地帯の12階の高層建築だな、という感想をまず持ちました。自分の研究室を見る機会はなかったのですが(見たら職権濫用ですね)、僕のところは作り付けの書架以外に書架を入れていないので、恐らく上の方に入れた本が落ちているくらいかなあ、と予測しています。

特に2つめの写真の部屋のように、書架が途中まで倒れて止まっているような場所は、いくら教授会の自治があるとは言え、最初にその部屋の教員が入って作業することはあまりにも危険です。そこで、研究室委員会の合意の下、業者が危険を取り除くところまでをやるというのが第1段階です。

第2段階は、それ以外の部屋も含めた、研究室内の復旧です。その1つは、書架の固定で、入り口に目隠し的に置きながら、何の支えもしていなかった書架などはたいていが倒れてひしゃげています。それを新しいものと交換し、耐震対策として完全に固定します。もう1つは書棚の整理です。本が多い部屋などでは、落ちた本を元に戻す作業を教員1人でやるのは手に余るだろうという判断で、法人側として、ヘルパー2人を半日用意する準備があるということでした。その必要性の判断をするために、来週中に研究室内を各自確認し、ヘルパーの必要性の有無をアンケート回答する、復旧作業は4月の新学期開始までに行うこととして、日程調整のために希望をアンケート調査する、などのことを決めました。

何もなければ本当に何もない委員会だったのですが、今日1日は、2000年に僕がこの大学に赴任してきてから最も仕事をした日として記憶されることでしょう。いやはや、疲れました。あとは、自分の研究室の無事を祈るばかりです。


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